水仙が満開

植えるのが遅かったのでどうなる事かと思っていたけれど、今水仙が満開となった

たくさん植えたのでかなりの甘い匂いが漂っている

(3月27日追記  まだ沢山咲いてはいるが、もうそろそろ終わりの感じ。今日は風が冷たい)

天気もそこそこだし、岡本の梅林園で梅まつりをやっているというので出かけてみた。

昼を過ぎていたので、既に甘酒もパンも苗木もなかった。午後もかなりの人出だが、午前中はごったがえしていたに違いない。

 

岡本の梅林園はこの時期有名だが、正直もっと大きな公園かと思っていたが意外に小さな公園だ。近くに居ながら初めて来た感想としてはそんな感じだ。でも、いろんな種類の梅の木が植えられているので、じっくり見るには十分な広さだ。

白い花、「月宮殿」と書いてあった

公園内の案内板には次のように書かれてあった

昔から、「梅は岡本、桜は吉野、みかん紀の国、栗丹波」と唄われ岡本梅林の起源は明確でないが、山本梅岳(←この看板はミスプリント、山本梅崖ではないかと思われる)の「岡本梅林記」に羽柴秀吉の来訪が記されているところよりかなり古くから存在していたようである。寛政十年(1798)には『摂津名所図会』に岡本梅林の図が登場する程盛んとなった。
明治維新後は、国学者大国隆正が、「岡本の梅とききつつ来てみれば 梅の中なる岡本の里」と詠じているように 全村の各戸に梅の木を植え、増田太郎右衛門所有の約3ヘクタールの梅林をはじめとして、相当広い範囲にわたっていた。
明治三十年頃から観梅期に国鉄が臨時停車場を設けるようになり、明治三十八年に開通した阪神電車が青木停留所を設けるにいたり岡本の観梅は阪神間における年中行事の一つとなった。
このように令名をうたわれた岡本梅林も昭和十三年の災害で山が崩れ、戦災で梅の木も消滅し、その後の開発で宅地化され、ほとんどその面影を残さない状態となっていたが、このたび岡本梅林を記念し『岡本公園』として、その一部を復活整備した。

昭和57年2月

(右下、絵はがき下に書かれてある文章)
「梅は岡本・・・」と唄われたころの岡本梅林の絵はがき(明治四十年-1907-のスタンプがある)
この頃は二月十一日の旧紀元節を山びらきとし、三月中旬を山じまいとした。この間一ケ月は茶亭が建ち並び梅果の焼酎漬、梅菓子等を行楽客に勧めた。梅は当初実を取るため植えられたもので、年間百石以上を産し品質が良いことで有名であった。

かつての本山、岡本の地は梅が沢山植わって梅の産地だったらしい。

(追記 2016.1)
岡本公園内の案内板に、山本梅岳、岡本梅林記の事について書かれていますが、いくら調べてみてもわからないのです。
この件についてご存知の方、郷土史に詳しい方、この件についてお教えいただけないでしょうか。メールもしくはコメント投稿より連絡お願いいたします。

(追記 2016.2.1 解決しました)

おそらく山本梅岳は間違い山本梅崖(やまもとばいがい)が正しいと思われます

詳しくは、こちら

 

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